「あんたは絵描きになる」と級友に言われたのは庁立札幌高女(現札幌北高)のころだった。医師志望だったが、その瞬間に画家を目指す決意をした。百三歳で亡くなった日本画壇最長老の片岡球子さんだ▼二十五歳で院展に初入選した。その後に七回落選し、落選の神様と呼ばれた。絵描き仲間は「落選が(自分に)うつる」と避けて通る。落ち込んだ。電車に飛び込もうとしたこともあった▼だが若いころから個性豊かだった。五十歳をすぎ、さらに大胆になる。生涯の仕事である「面構(つらがまえ)」では浮世絵師たちにもほれ込んだ。「時の権力に屈せず生命を張って描き続けた」。自分にとって神様ともいえる存在だと語る▼奔放とされた自らの画風について「いやというほどたくさんな色を、遠慮会釈もなく、しゃにむに使って描く」と振り返っている。北国で育ってきたのが幸いした。秘密は札幌の春にある▼「五月六月は花らんまん、桜も梅も桃も藤(ふじ)も、そしてライラックやアカシア、牡丹(ぼたん)、花菖蒲(はなしょうぶ)に至るまで、一度にどっと咲く。そのあざやかさ、美しさは北国でなければ味わえない独特の美観です。ひとりでに多彩な色感を胎内に宿すことになります」(「片岡球子の言葉」)▼主に東京や名古屋で活躍したが、道内でもよく展覧会があった。百歳を超えて毎週デッサンを続けた。熱情に満ちた、明治の、そして北海道の女性だった。
(北海道新聞より引用)
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